となりのロボット -"好き"の近似値を探して-

となりのロボット

 

 

SF漫画としての、となりのロボット

私はロボットです
今はだいたい人と同じことができます

となりのロボット #1 より

この各話の導入モノローグとなるこのセリフ、この作品を象徴するものだと思う。

プラハは10年程度で形になったものではなく、沖島先生の頃からずっと研究開発を続けてきて、その沖島先生もまた世を去っていく、それだけのスパンで続いて、まだ未完成の存在。触覚などプラハはまだ持っていない機能もたくさんあり、人にできてプラハにできないこともまだまだ多い。

だから「今は」「だいたい」なのである。

だけど、新しい部品や制御プログラムが導入され、少しずつハードウェアも更新され続けており、プラハを人間にするために、いろんな人達が日々考え、苦労しながら関わっている。

特に澄岡さんのエピソードが好きだ。

十代の女の子にどんな機能が必要なのか考えたこともなかった
この子を人間にするのは私たちなのに

となりのロボット #6 より

ただ、自然な動きをするためのハードウェアだけがあればいいわけではなく、日常の中で運用すること、人間として普通の生活をするために必要な課題がいくらでもあり、日々解決しくこと、とてもエンジニアリングな領域が垣間見える。

また、奥寺室長を始め、歴代室長の考え方も面白い。簡単にプラハの思考や行動を意図的に狭めない。

それは必然の結果であり『修正すべきエラー』ではない

となりのロボット #3 より

こういった選択自体も、その後のプラハを形作っていると思うし、理学的な真理を追求する側面もあると思う。


ヒロちゃんとチカちゃんの二人だけの物語だけでなく、研究室の人たちが日々の仕事の積み重ねの先にプラハがいて、チカちゃんとの"好き"がある。

恋愛漫画としての、となりのロボット

チカちゃん泣かないで

となりのロボット #4 より

作中でも、恋愛面で象徴的なシーンであり、個人的にも好きなシーン。
ここでは、あえて2通りの見方をしてみたい。

まずは、チカちゃんの視点。

ヒロちゃんがしたことを、これまでの知識に当てはめて社会常識として同じ応答した、と受け取っている。ロボットだから、自分の気持ちは通じていないから。
わかってもらえない切なさの象徴として、ヒロちゃんの笑顔が描かれている。
    
一方でヒロちゃんの視点から。

一見すると、泣いている女の子を前に笑顔を返す不気味なロボット、とも取れるが、
直前にある「自分が笑顔であるとき子供は笑顔である」との対応関係にある行動ではないだろうか。そう捉えると、単純に「チカちゃんに泣き止んでほしい」からとった表情と解釈できる。

元はといえばキスを返すことも「チカちゃんの笑顔」を得るための、そのための行動だったはずで、それに対するチカちゃんのレスポンスはたぶんプラハには想定外のものだったと思う。だから、怒ってるの?泣いてるの?と質問を投げかける。

その上で出てきたのが、子供の頃のチカちゃんとの「自分が笑顔であるとき~」の応答になるわけですが、出てきたのが子供への対応、という時点でヒロちゃん自身も、なにを返すのが適切か混乱しているともとれる。
(評価点から算出した確率の高いものを選んだだけではあるが、不適切な解、それもチカちゃんの子供時代のものを引っ張りだしているし、混乱していると私は思う)

ここに描かれた、すれ違いとその切なさ、百合の醍醐味であるし、そこは西UKO先生っぽいなと思う。

"好き"ってなんだろう?

プラハの、ヒロちゃんの"好き"の根源はなんだろうか。
プラハが自分自身に評価点をつけるものとして、一番目は「沖島先生に褒められた時」であり、二番目が「チカちゃんが笑顔を向けてくれた時」と作中にある。
これをもって奥寺室長はプラハがチカちゃんを"好き"と言う。

もう少し掘り下げて考えたい。

沖島先生が最初にプログラムしたときからプラハが一番評価するものは「自己の変化」になる。これは推測だけど、「沖島先生に褒められた時」というのも実際は、この評価基準に従ってのものじゃないだろうか。

たぶん変化といっても「人間らしい」という枠があるはずで、その枠を外れた、例えば4足歩行することは求められている変化ではないでしょう。

第一世代のAIであれば、ヒトとは何か、ヒトのすべき行動をif文で全部インプットすることになるんでしょうが、そんな無限のパターンの網羅は不可能だと先人たちの研究でわかっていること。

で、どうやってヒトの枠はを決めているかというと、初期は人の手でOK/NGを与えていたと思うけど、今はたぶん周りの人達の反応から抽出されているのだと思う。

反応とは、沖島先生が褒めることであり、チカちゃんの笑顔であり、研究室や学校で関わる全ての人たちの反応。そこからOK/NGを判断し、それを情報を入力として、次の出力を得る。「プラハはフィードバックを多用している」と奥寺室長が言われているのがこれ。(これまさにディープラーニングですよね)

最初は発散した行動もするけど、最終的にヒトの近似値に向かって収斂していくと思う。(例えば、パズルの組み方とか象徴的な発散した行動のひとつ)

人の反応からOK/NGを求めるというロジック、これも深く考えてみると面白い。
たぶん人と話す時、プラハの中には応対する人の"モデル"があるはず。

モデルとは「この応答したらその人は喜ぶ」という想定問答と言ってもいいかもしれない。たぶん、そのモデル化が一番高度に、メモリ領域を割いて行われているのは、沖島先生とチカちゃんなんだと思う。(それ自体もプラハの中での"好き"の現れ)

のちに出てくる"チカちゃん"はそのモデルから起こされたものでしょうね。

話を戻すと、埋め込まれた固定ロジックではなく、プラハが経験とアウトプットを繰り返して「人間らしく」「自己の変化」を促す存在として、沖島先生とチカちゃんが選ばれた。

これがプラハなりの"好き"。プラハが出した"好き"の近似値。

俗なことを言えば「自己の変化」を餌としてぶら下げられているとも考えられるが、恋愛漫画でも「自分を良い方向へ変えてくれる」ことを起点とする好意はよく見る。

そう考えていくと、人間が感じる好きと、プラハの好きの違いはあるのだろうか?

むしろ、人間の思う"好き"ってなんだろうか?

 

となりのロボットは、エンジニアリングを下敷きとしながら、人間の女の子とロボットの女の子の恋愛を通し、"好き"の本質を考えさせる力のある作品だと思う。